花束

人妻であるわたしは、激しく後悔していた。
どうしてあんなことをしてしまったのだろう。
知り合いひとりいない引っ越し先で、わたしは孤独だった。

口をきく相手もいず、ただひたすら夫の帰りを待つ毎日。

唯一、顔を合わせ口をきく相手といえば、宅配便の男性だけ。
うちはだんなもわたしのネットでのお買い物が多い。

だから自然と配達される回数も増える。
その人とは日に一度は顔を合わせるようになった。
ある春の日差しがまばゆい昼下がり。

いつもの通り、彼がやってきた。
何かモジモジとしている。
「すみませんが、お手洗いをお借りできませんか」と彼は口を開いた。

親切なわたしは、どうぞ散らかった部屋ですが、と何の気なしに彼をトイレまで通した。
ついでに、いつもお世話になっているお礼に麦茶をガラスのコップに注いで用意しておく。
まだ、氷を入れるほど暑い気候ではない。

「すみません、ありがとうございました」。
彼が出てきた。
私はいつもの感謝の気持ちを述べ同時にコップを渡す。

すると彼は恐縮しながら、ごくりと喉を鳴らしながら一気に飲み干した。
反り気味になった喉に汗が一筋流れている。
その一筋の汗を目にしたとたん、自然に体がカッと熱くなった。

「ごちそうさまでした」爽やかな笑顔。
あの、と私は何かを言いかける。
怪訝そうな顔を彼は返す。

次の瞬間、つま先立ちになって彼の厚い両肩を掴み、唇を重ねる自分がいた。
どうしてあんなこと。
今日は配達はあるのかしら?平常心なんか保てない。

その時、表から急ブレーキの音が響いた。
ガシャーンという轟音。
事故だ。

飛んで外へ出ると、既に近所の人々がぐしゃぐしゃに曲がった車体を囲んでいる。
聞けば、ドライバーは猫を避けようとしたらしい。
運転席には、彼がいた。

唇にはまだ彼の感触が残っていた。
傍らにはつつましいいダリアの花が一輪置いてある。
「即死かな」誰かの声がした。

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